天文十八年(1549)、川越城主、大道寺駿河守政繁の母君、蓮馨大姉は、民衆の心の安らぎの場として、当山を創建しました。開山は感誉存貞上人で、のち大本山増上寺第十世に登られた方でした。徳川時代には、関東における“十八檀林”の一つに列せられ、幕府公認の僧侶養成機関となり、多くの学僧を育てました。呑龍堂に祀られる呑龍上人(1556〜1623)は、各地を巡っては困窮する多くの人々を救い、まずしい家の子供達を寺に預かっては、勉学の機会を与え、諸々の相談事をうけては解決していったという、正に生きた仏として崇められた方でした。社会事業の先駆者であり、今日でも、霊験あらたかな仏様として、祀られています。又、新設の講堂は、全ゆる催事に広く活用され、集いの場としてご
利用頂いております。地域の祈願所、心安らぐ集いの場として、当山は多くの方々に親しまれ、今日に至っています。
●開山感誉存貞上人
戦国時代が終わるころ、天文十五年四月(1546)川越城を包囲した足利、上杉の大軍は、小田原から馳けつけた北条氏康の軍に夜襲をかけられて敗走、氏康は家老大導寺政繁を川越城将としました。又、その母君、蓮馨大姉は、仏の教を弘め、民衆に心のより所を与えたいとお考えになり、甥にあたる感誉存貞上人を招いて開山としました。これが蓮馨寺の創りであります。
開山感誉存貞上人は、蓮馨大姉の請(こい)によって天文十八年蓮馨寺の開山となり、のち大本山・東京芝の増上寺第十世に登られました。学徳一世に秀で、寺を開くこと九、門下の逸材は十指に余り、当山に帰退後も、学寮僧常に三百、偉徳は全国に知られる程でした。特に上人の浄土宗伝法改革は、感誉流といって、現在も主脈とされています。
●祈願所(呑龍さま) -毎日受付・諸願成就-
呑龍上人(1556〜1623)は、大田大光院の開山となられた方でありますが、当時上州の地には度々冷害や飢饉が続き、思案に余ったまずしい農民の間には、堕胎や間引き(嬰児殺し)をすることさえ行われました。上人は惨状を見るに忍びず、寺の禄米をひそかに出して与えたり、読み、書き、そろばんといった、生きるための教養を、まずしい人々に与え続け、又、色々な相談に応じたばかりでなく、困窮者の子弟を集めて形ばかりの御剃度を行い、お弟子(出家)という形をとって、慈悲行を続けられました。このため、救われた人々からは勿論、伝え聞いた人々からも活仏(いきぼとけ)として崇められました。子育呑龍上人という称はこうしておこり、呑龍様のお弟子入りということが、上人の没後も、特別の意味を持って信奉され、又、多くの霊験を現しています。
身を挺して民衆の苦難に赴かれたその後半生は、学究としての前半生の大きな開花であり、社会福祉事業の我が国におけるさきがけとして、生きた仏者の鏡であります。
●講堂(達丈記念講堂)
当山では、境内を一般の方々が誰でも入れ、集える場、心を休め、明日への鋭気を養う場として開放しておりますが、この度、講堂を新設、冠婚葬祭、その他誰でも使える広場と して、運営しています。(座席:一階 90席 二階・和洋二設 各30席) |