永禄1年(1558)後北条氏の川越城将政繁は、城下に一寺を建 立して建立寺と名づけ、一族中の存貞和尚を小田原伝肇寺より招請して開山とし、のち見立寺と改めた。存貞和尚は、永禄6年増上寺10世となったが、永禄9年見立寺に再住した。そして先に政繁の母が平方村に造営した蓮馨寺を、川越に移して両寺を兼帯した。天正18年(1590)豊臣秀吉の禁制書には、「武州川越蓮馨寺同門前 見立寺」と記されている。蓮馨寺門前より当地に移転した年代、経緯など不詳であるが、おそらく、延宝年中(1670年代頃)であると考えられる。見立寺は文政11年(1828)3月25日、石原火事により類焼、
さらに天保11年(1840)4月8日に焼失している。再度の火災により、古文書等も現存していない。現本堂は、明治14年(1881)に建立されたものである。その他、当寺には、板碑(青石塔婆)二基、徳本上人名号碑、松平(松井)周防守家の阿弥陀如来坐像並藩主位牌などが現存している。
●赤穂浪士・矢頭右衛門七の妹の墓
当寺には、赤穂浪士の一員・矢頭右衛門七(やとう・えもしち/討ち入り当時17歳)の妹の墓があります。妹は矢頭兄弟の次女で、元禄15年(1702)12月の討ち入りを前に、母親らとともに叔母の嫁ぎ先の奥州白川藩(福島県白河市)に向かい、討ち入り後に幕府に窮状を認められ、親類の多賀谷家の次男と結婚しました。その後、白川藩主の国替えに伴い、上州厩橋(群馬県前橋市)へ、さらに川越へと移住、その時には70代になっていたと推定され、川越へ来た翌年に病没しています。嵐のような激動の時代に、男社会の中で思いがけない運命をたどった女性の姿がまさに浮かび上がってくるようです。
●浄土宗念仏行者 徳本上人名号碑
江戸時代、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とただひたすらに念仏を唱えることで、衆生を救った徳本上人(とくほんしょうにん)の名号碑。徳本は、念仏を説いて江戸から全国各地を行脚し、人々に生きる喜びを与えました。当寺にも行脚のさなか訪れ、それを記念して名号碑を建立しました。当寺と同じような「南無阿弥陀仏」を刻んだ碑が全国に1000基以上も残されていることから、徳本上人の多大な功績を伺い知ることができます。 |