第2回 
天下祭
 
 

川越の人々は、新河岸川の舟運により、周辺の地域から集まった物資を大消費地であった江戸(東京)へ供給する経済交流の中で、江戸(東京)の文化、風俗を取り入れていきましたが、こと祭りに関しても全く例外ではありませんでした。慶安元年(1648)、川越城主松平伊豆守信綱が川越氷川神社に神輿や獅子頭、太鼓などを寄進したことから祭りが執り行われるようになりましたが、大江戸の天下祭に習い、その影響を受けながら、祭りは発展を続けてきました。

大江戸の天下祭とは、日枝神社の山王祭、神田神社(神田明神)の神田祭、根津神社の根津祭(1回のみ開催)を指します。この天下祭は、江戸幕府の援助と規制を受け、江戸城内に祭り行列が参入し、将軍の上覧に供しました。上覧祭、御用祭とも呼ばれます。神田祭では、神輿の前後に30数台の出し(山車のこと。昔は「出し」と書きましたので、今回はそれに従います。)や様々な練り物が従い、江戸町人の盛んな意気を示したとされます。


日枝神社(現千代田区永田町)

神田神社(現千代田区外神田)

ある資料が伝えるには、山王祭の行列が元和元年(1615)、神田祭の行列が元禄元年(1688)に江戸城内にはじめて入ったとあります。その後、神輿に随行する出しや練り物も年を経るにつれ、形態や仕様を変えていきますが、川越の人々はその新しい変化をどんどん自分達の祭りに取り入れました。当時の祭りでは、江戸で流行ったものが見られると同時に、江戸では規制を受けて中止されたものも出されたといいます。


神田須田町の出し
(江戸東京博物館蔵・復元)
天保年間末期の江戸で、出しのせり出し構造が考えられ、二重の鉾台を持つ出しが誕生しました。現在、江戸山車といえばこのタイプを指し、もちろん川越まつりの山車もこれにあたります。文久2年(1862)にはじめて鴫町(志義町・現仲町)が二重鉾・四ッ車の羅陵王の出しに変更しました。早くもこの時現在川越に多く見られる唐破風の屋根が付いていました。江戸、川越ともに祭りの主役は、二重の鉾台を備える山車が担っていくことになります。

黒船来航、開国、倒幕運動と続いた動乱の幕末、徐々に天下祭は衰えをみせ、文久2年(1862)の山王祭を最後に江戸城内への祭り行列の参入はなくなり、江戸幕府の影響下で行われる天下祭は終焉の時を迎えました。明治時代には、氏子達の努力により祭りが復活しますが、急速な都市化の一途をたどった東京ではその維持は難しく、関東大震災、第2次世界大戦を経て、出しを中心に曳きまわすことはなくなり、現在は神輿が中心の祭りへと姿を変えました。出し自体も、東京からは姿を消し、地方へ売り払われたものなどが残っているのみだといいます。

豪華絢爛な天下祭を彷彿とさせ、その伝統を受け継いでいるのが川越まつりなのです。

第1回変遷 第2回天下祭 第3回山車 第4回人形 第5回囃子・踊り 第6回ひっかわせ