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備後絣

(有)渋谷産業 http://www.4bu8.net/

富田久三郎が手挽き糸で縞木綿の製造を始めましたが、間もなく絹織の方法を綿布に応用して「浮織」を作ります。その後、絣織の製造を勧められ、絣の名を初めて聞いた久三郎は絹織物の「きし島」という浅黄絣の製品を見て初めて見る絣の美しさに魅了されたといいます。

そして絣の研究を決意し、早速手挽き糸を用い経絣部分を竹の皮で巻き坊寺村(現駅家町大字坊寺)の川の上鈴岡与平という人に染色を依託しました。こうして最初の絣糸が出来、久三郎はこれを井桁絣に仕組み、苦心の末に試作品を織り上げ、これが久三郎にとっては創意創作の木綿絣でした。

備後絣1 備後絣2

その後、さまざまな改善を加え「時計枠」という紡糸器を案出して紡糸の再整を図ったり、絣の染色方法を研究したり、細糸紡糸法を研究する等、ますます巧緻な絣を織出するようになり、その絣織は世間から賞讃を受けました。それは嘉永六年の頃です。

このように生れた絣は、次第に量産を増やし、大阪へ初めて持参したのは明治の初年であり、大阪市場に現われた最初でした。

「ガチャ万」という言葉があります。それは第二次大戦後一時、福塩線の福山〜府中間の沿線地方でいわれたもので、織物を一織りするごとに多くの利益があったことを指していました。備後絣はそうしたこの地方の織物の中で代表的なものです。

備後絣3 備後絣4

備後絣と九州の久留米、愛媛県松山地方の伊予絣を日本三大絣と呼んでいますが、戦後備後絣は年産300万反(一反は11m余)にも及び、他の二つの絣を合わせたものの数倍も生産され、女性の作業着として日本国中に販売されました。

一時は、三百万反も生産された備後絣も、化学繊維や流行の変化により、生産は減りましたが、今ではウール絣も生産されるようになり、ますます多くの人々に愛されています。

備後絣協同組合ホームページもご覧下さい。

 

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