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川越まつりは、慶安元年(1648)に当時の藩主松平信綱が、氷川神社へ神輿・獅子頭を寄進したのがはじまりです。その3年後の慶安4年(1651)に信綱の命によって祭礼が引き渡され、この年から川越十ヶ町の人々が神輿に随行するようになったと考えられています。「武蔵三芳野名所図会」には、元禄11年(1689)にはじめて踊り屋台(車のついた舞台の上で日本舞踊を踊る)が出、これ以後数寄を尽くすとあり、この頃から華麗な様式を取り入れ、都市の祭りとして整えられていったと思われます。 その後、新河岸川の舟運(しゅううん)を中心とした江戸との密接な経済交流に合わせて、江戸の天下祭といわれた、赤坂日枝神社の山王祭、神田神社の神田祭の影響を受けながら、変遷を辿っていきます。天下祭が全盛期を迎えた文化・文政期に川越十ヶ町の附祭(つけまつり/山車・踊り屋台・仮装行列など)によって、全国に知られる大祭となっていきます。 例えば、文政9年(1826)の「川越氷川祭礼絵巻」には、神幸祭を先頭に列をなして川越城へ向かう笠鉾(かさほこ)形式の山車(出し)と踊り屋台などの附祭が克明に描かれています。この頃は、附祭として江戸の天下祭で禁止され、既に見られなくなった出し物と、当時流行していた出し物を同時に見ることが出来ました。現在は山車が町を練り歩きますが、山車をはじめとして、町ごとに趣向を凝らした出し物があったようです。 天保15年(1844)の「川越氷川祭礼絵馬(絵額)」では、すべての山車が一本柱形式に統一され、その頭上には人形をのせています。この絵馬は、氷川神社本殿改築の上棟式を祝って、鳶の人々が奉納した大絵馬です。そこでは附祭が省略され、山車、役員、鳶職、囃子連が登場するのみです。 明治時代に入ると、川越藩が消滅したことにより、藩の保護は得られなくなりましたが、川越町となって新たな出発をはかり、物資供給の中心地として栄えた川越の商人達が持つ経済力を背景に、川越まつりを新たな形で発展していきます。附祭は次第に姿を消し、山車が祭りの主体となっていきます。明治以降の川越まつりの特徴は、江戸時代の天下祭の影響を残しつつ、正調の江戸流を伝えるとともに、山車の囃子台の唐破風(からはふ)屋根や囃子台が360度水平に回転する構造など、豪華さを取り入れた川越独自の個性を示し、現在に至ります。 また、各山車の最上段に据えられる人形は、歴史や民話から取材したもので、原舟月(はらしゅうげつ)、仲秀英(なかしゅうえい)など、江戸人形師の名人による作品が多いのも特徴のひとつ。川越まつりに欠かせない囃子は、文化・文政の頃江戸から伝わったもので、どれもその源流は、江戸の葛西囃子、神田囃子です。流儀は王蔵(おうぞう)流、芝金杉(しばかなすぎ)流、堤崎(つつみざき)流に大別され、山車の移り変わりに伴い、独自の改良を重ねて発展してきました。 このような歴史を培ってきた川越まつりは、今年20世紀最後のまつりを迎えます。今年は25台の山車や屋台が参加し、まつり好きの川越っ子もたいへん盛り上がっています。今年の川越まつりは絶対に見逃せません。お時間がありましたら、ぜひ川越まつりを見に来て下さい。
次回は喜多院を探検します。 |
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