|
川越からはじまる新河岸川。新河岸川はやがて荒川に注ぎ、そして隅田川となります。江戸時代初期から昭和始めまでの約300年間、川越と江戸を結ぶこの流れを数多くの舟が行き来しました。新河岸川の舟運は、人や物資を載せて運んだだけではなく、川越と江戸を強く結びつける役目を果たしました。川越に深く根付いた江戸の文化は、この舟運によってもたらされたといってもいいでしょう。 寛永15年(1638)1月、川越は未曾有の大火に見舞われます。喜多院や仙波東照宮一帯も火の渦に巻き込まれました。その時、江戸幕府三代将軍・徳川家光の命により、喜多院や仙波東照宮再建のための資材を江戸から新河岸川を使って運び込んだのが舟運のはじまりとされています。 舟運は、知恵伊豆と呼ばれた松平信綱が川越藩主になってから本格的に開かれました。新河岸川は、この頃内川といいましたが、舟の運行に適するように伊佐沼から水を引き、多くの屈曲をつけ、水量を保持するなどの改修を行いました。 当初は年貢米の輸送を主としましたが、時代が進むにつれて人や物資が行き交うようになります。舟の種類は並船、早船、急船、飛切船などがありました。並船は終着地の浅草花川戸まで1往復7・8日から20日かかる不定期の荷船、早船は乗客を主として運ぶ屋形船。急船は1往復3・4日かかる荷船。飛切船は今日下って明日には上がる特急便でした。通常「高瀬舟」で7・80石積み、九十九曲がり三十里(およそ120km)を川越方面からは俵物(米・麦・穀物)、さつまいもや農産物、木材などを運び、江戸からは肥料類をはじめ、主に日用雑貨を運搬しました。 川越では、旭橋を中心とした上・下新河岸、扇河岸、寺尾河岸、牛子河岸とをあわせ「川越五河岸」と呼ばれ、船問屋や商家が軒を並べ、日夜発着の船が絶えませんでした。また、その物資を運搬する馬や車が行き交い、たいへんな賑わいを見せていたといいます。物資供給の中心地として栄えた商都川越の玄関口だったのです。 幕末から明治初年ごろが舟運の全盛期となり、その後は鉄道が開通し、また洪水防止のための河川改修により水量が不足するなどして舟の運航が妨げられ、舟運は昭和6年(1931)に終わりを告げました。 江戸幕府主導の喜多院や仙波東照宮の再建にはじまり、川越まつりの発展、蔵造り商家の建設など、江戸の文化を吸収して自然と取り入れていった川越っ子がいたからこそ今の川越があり、おそらく華やかな江戸への憧れに似た気持ちが、例えば、江戸の天下祭を模倣しながらも、川越まつりを一段と個性的なものとさせ、明治になって大火に見舞われた後、蔵造りをこぞって建設した一因となっているのだと思います。 取材中、偶然にも下新河岸にあった元船問屋「伊勢安(いせやす)」斉藤家のおばあさんとお話が出来たのですが、「この船着場もどんどん変わっていくのねえ。」という言葉が印象的でした。 |
|
新河岸川舟運略図:川越から浅草花川戸まで
次回の小江戸探検隊は、喜多院境内の五百羅漢を特集します!
|