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川越城は、扇谷上杉持朝(おうぎがやつうえすぎもちとも)が古河公方足利成氏(こがくぼうあしかがしげうじ)に対抗するため、長禄元年(1457)に家臣の太田道真・道灌父子に命じて築城したものです。太田道真・道灌父子は、この年江戸、河越、岩槻と三つの城を建てた(どちらがどの城を建てたかははっきりしていない)といわれています。初雁城とも呼ばれた城の当初の規模は、後の本丸・二の丸を合わせた程度と推定され、平城で砦的な要素が強く、建物も瓦ぶきのものは限られていたといいます。 やがて戦国の世が訪れ、諸国の戦国大名たちは天下を取るべく、領地の拡大を図ります。関東では、伊豆から相模の小田原まで進出した北条早雲(後北条氏)が、武蔵を手に入れようと狙っていました。それには南武蔵を支配する上杉氏の勢力をつぶさねばなりませんでした。後北条氏は、江戸、岩槻、河越と上杉氏の城を次々と攻略。河越では、天文6年(1537)旧暦の7月15日満月の夜、上杉朝成(うえすぎともなり)の軍勢と北条氏綱(ほうじょううじつな)の軍勢が激突しました。この夜戦で上杉氏は敗北を喫し、河越城は後北条氏の勢力下になりました。 天文15年(1546)には、山内、扇谷の両上杉氏と、後北条氏の勢力拡大を恐れ上杉氏との利害の一致から手を組んだ古河公方の大軍が河越城の奪回を試み、城の周囲を包囲します。しかし、小勢ながら援軍として駆けつけた北条氏康(ほうじょううじやす)の奇襲にあい、またもや大敗して逃れることとなりました。この合戦もまた夜戦であったといいます。ここに後北条氏の武蔵の国支配が決定しました。 天正10年(1582)、明智光秀を倒した豊臣秀吉は天下統一を目指し、武蔵を治める北条氏政(ほうじょううじまさ)と手を結ぼうと考えましたが、これを拒否されます。天正17年(1589)豊臣秀吉は小田原征伐に向け、ついに動き出します。翌年、天正18年(1590)には小田原城落城、そして河越城は無血開城となります。その後、武蔵は前田利家によって警備され、同年8月徳川家康が一族家臣を従えて関東に移るにおよび、徳川氏の配下に移行しました。 重臣を重要な地に配し領国の安定をはかった徳川家康。川越には、三河以来の家臣だった酒井重忠が1万国をもって封じられ、川越藩が誕生します。その後、川越藩主となった人物は、譜代大名で幕府で要職についていた者が多く、川越と江戸幕府との密接な関係を物語っています。3代将軍徳川家光の事跡を描き込んだといわれる「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)にも、当時の川越城の様子が描かれています。 その後、寛永16年(1639)、徳川幕府の重鎮として知られる松平信綱(まつだいらのぶつな)が川越藩主となります。松平信綱は、川越城の大規模な拡張・整備を行い、近世城郭の形態を整えるに至ります。川越城は、本丸、二の丸、三の丸等の各曲輪(くるわ)、三つの櫓(やぐら)、十二の門よりなり、堀と土塁を除いて46,000坪となりました。 本丸御殿は、嘉永元年(1848)時の藩主松平斉典(まつだいらなりつね)が造営したもので、川越城唯一の遺構です。元々本丸御殿は、16棟、総建坪1,025坪も規模をもっていましたが、明治維新後の歴史の波の中で次第に解体されていきました。現存しているのは、玄関、大広間と、移築復元された家老詰所のみとなっています。 実際に本丸御殿をのぞいてみましょう。玄関で靴を脱いで上がり、拝観料を払います。見ると廊下がぐるりと部屋を取り囲んでいるようです。いくつかある部屋の中をのぞくと、どれもとても質素です。装飾などは最低限に止められているようですが、部屋と部屋を仕切る扉に描かれた杉戸絵は必見です。約150年前、ここ本丸御殿で当時の人々がどんなやりとりをしていたんだろうと想像すると、何だか楽しくなりました。 家老詰所は、明治6年(1873)上福岡市の福田屋の分家に移築され、昭和62年まで母屋として使用されていたものです。これを川越市がもらい受け、当時とほど近いところに修理復元した建物。当時、川越藩主はほとんどが江戸に詰めていたことから、ここで家老が実際の藩の運営を取り仕切っていたと考えられます。 ここ川越城本丸御殿は、川越市立博物館や三芳野神社とも目と鼻の先。市が管轄する博物館、本丸御殿、そして蔵造り資料館のお得な3館共通入館券も販売されています。お時間がありましたら、ぜひ訪れてみてください。
次回は、川越城の七不思議をご紹介します。 |
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